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2021.12.17

【大人の教養・日本美術の時間】わたしの偏愛美術手帳 vol. 18-上 井上海さん(埼玉県立歴史と民俗の博物館学芸員)

円山応挙筆「寿老西王母孔雀図」

円山応挙筆「寿老西王母孔雀図」(西新井大師 総持寺蔵)

「わたしの偏愛美術手帳」では、各地の美術館の学芸員さんたちに、とびきり好きな「推し」の日本美術をうかがいます。美術館の楽しみ方といった、興味深いお話が盛りだくさん。このシリーズを通じて、ぜひ日本美術の面白さを再発見してください!

今回お話をうかがったのは、埼玉県立歴史と民俗の博物館(さいたま市大宮区)の井上海・学芸員です。紹介してくださるのは、明治時代から昭和初期にかけての実業家、渋沢栄一(1840~1931年)の旧蔵品である円山応挙まるやまおうきょ筆「寿老じゅろう西王母せいおうぼ孔雀図くじゃくず」(西新井大師 総持寺蔵)。NHK大河ドラマ特別展「青天を衝け~渋沢栄一のまなざし~」(2021年3月23日~5月16日)の準備段階で初めて本格的な調査が始まった、渋沢栄一と美術の関係をお話しいただきました。

色気ただよう美しさ

―円山応挙の「寿老西王母孔雀図」の見どころをお聞かせください。

何と言っても、孔雀の羽の美しさです。右幅は、孔雀の羽1本1本が細かく描かれていて、緑青の隙間から金が見えており、左幅は、白孔雀の羽の隙間の一部から赤い紅葉が透けて見えます。初めて見たとき、「色っぽいな」と思いました。中幅は、長寿や不老不死を象徴する寿老人と西王母です。

落款らっかんから、天明元年(1781年)の制作と分かります。応挙が数えで49歳のときの作品です。応挙はのちに、有名な大乗寺(兵庫県)の襖絵ふすまえなど、孔雀の絵をいくつも描きましたが、それらにも引けを取らない完成度です。これまでほとんど展示されることがなかったので保存状態がとても良く、絵の具の剥落はくらくや虫食いもありません。

埼玉県立歴史と民俗の博物館外観(同館提供)
渋沢栄一のコレクション

―どのようにして、この絵が渋沢栄一の旧蔵品だとわかったのでしょうか。

私は2020年4月から、埼玉県立歴史と民俗の博物館に勤めています。当時すでに、当館とNHKとの間で、大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一の展覧会を、渋沢の故郷・埼玉県にある当館で開催することが決まっており、私はそのサブ担当になりました。

当館は2021年で開館50周年なのですが、開館30周年の時に、実業家としての渋沢を紹介する展覧会をしたため、今回は趣向を変えて、福祉や文化などの社会事業への貢献に焦点を置くことになりました。埼玉県内には、渋沢が主導した国際親善交流で、アメリカの子どもたちから日本の子どもたちに贈られた「青い目の人形」が12体も現存しており、それを一堂に集めることが展示の目玉のひとつとして計画されたのです。

私の専門は美術なので、上司に「渋沢栄一と、美術や文化の関係が何かないか調べてみて」と言われて。そうした研究はこれまでほぼされてこなかったと思います。出光美術館や根津美術館のように実業家の収集品を展示する美術館は少なくありませんが、渋沢の美術コレクションというのは聞いたことがなく、「そもそも存在しないのでは」と最初は疑っていました。

これまでの膨大な渋沢研究のおかげで、「渋沢栄一伝記資料」という68巻に及ぶ伝記があり、それがすべてデータベース化されています。それを使って「美術」などの単語を検索したところ、渋沢と同時代の画家、下村観山かんざんと橋本永邦えいほうが描いた扁額へんがく南湖なんこ神社(福島県白河市)に寄贈したという記事や、江戸時代の幕府老中・松平定信さだのぶの書画の展覧会を開催したといった記事が見つかりました。それで、美術品を収集した実業家が多かった時代に、渋沢ほどの実業家に「美術商などから声がかからなかったわけはないな」と思い直しました。

伝記資料を調べるうちに、明治42年(1909年)に、東京国立博物館(東京・上野)の表慶館が開館した時の内覧会で渋沢が「秘蔵の応挙筆孔雀三幅を出品せられたり」という記述を見つけました。表慶館は、大正天皇のご成婚をお祝いするために、渋沢らが中心となって寄付を募り、献納された美術館です。

さらに調べると、明治30~40年代に刊行された美術雑誌「美術画報」や「國華こっか」にも、「孔雀三幅対」が渋沢の所蔵品として掲載されていました。渋沢の没後、昭和9年(1934年)の売立目録に載っており、一時期は、製薬会社わかもとの社長で美術コレクターだった長尾欽弥の所蔵となり、今は西新井大師にあることがわかりました。しかし、そうした来歴は、これまで知られてこなかったので、渋沢栄一の旧蔵品として大々的に紹介したのは、今回の「青天を衝け」展がほぼ初めてとなりました。

渋沢がどのように美術品を集めたのかはわかっておらず、渋沢自身の好みで積極的に作品を選んでいたかどうかにも疑問が残ります。しかし、少なくとも渋沢は、お祝いの雰囲気が伝わる名画として、所蔵品のなかからこの応挙の掛け軸を選び、表慶館の開館時に出品したのだろうと思います。自邸にも一度くらいは飾ったかもしれないですね。

渋沢は歴史的なものをきちんと後世に残すべきだという信念が強かったと思います。アメリカ大統領としての任期を終えてから訪日したグラント将軍の接待を任された渋沢は後年、東京の上野公園で将軍夫妻が植樹した場所に石碑を建てて、自ら文章を寄せています。また、渋沢邸(渋沢史料館がある東京・王子の飛鳥山)の近くにある西ヶ原一里塚が撤去されそうになったときには、地元の人々と協力して土地を買い取り、公園指定地として当時の東京市に寄贈して守りました。

思いをつなぐ

渋沢は、自分が敬愛した大切な人々のことを後世に正しく伝えたいという気持ちも強く、松平定信の伝記を書いています。定信は「寛政の改革」を行い、その一環として、非常時に使えるように、毎年少しずつ積み立てを行う「七分積金しちぶつみきん制度」を始めました。江戸幕府の崩壊後、明治政府はその積立金を土地開発やインフラ整備などの公共事業に使い、その管理運営を任された一人が渋沢栄一でした。養育院の運営もその資金をもとに行ったのです。それゆえ、渋沢は定信を敬愛し、その業績を広く世に伝えるために伝記を書き、定信自筆の絵や書を収集し、展覧会まで開いています。また、定信をまつる南湖神社に、下村観山と、観山に師事した橋本永邦に依頼した日本画の扁額を、その経緯を自ら記した書とともに奉納しました。

渋沢が美術に広く関心があったかは疑問ですが、観山への支援の仕方は特別で、作品をたくさん買い、観山会という支援団体に参加し、南湖神社に納める扁額も依頼しています。古美術収集だけではなく、こうして同じ時代を生きた画家への支援もしていたことから、渋沢栄一と美術の関係は、決して実業家としてのステータスのためだけだったわけではないように思います。

渋沢はまた、徳川慶喜の存命中には刊行しないという約束を守って、慶喜の没後に「徳川慶喜公伝」を刊行しました。一農民だった自分を一橋家の家臣として引き立ててくれた慶喜を敬愛し、その才覚にも心底ほれ込んでいたことは、広く知られていますよね。

渋沢は、近代日本の経済発展に欠かせない、あらゆる事業の種をまいた人、というイメージが強いですが、たんに未来に向けて前進するだけではなく、そうした先人たちの功績をきちんと未来に伝えようとしたのです。

―渋沢は「論語」を学んで、事業活動に生かしたことが知られていますね。

ええ。「論語のおかげで自分の軸ができた」と述べています。渋沢が一番心を傾けていた所蔵品というのは、おそらく美術品ではなく、論語を始めとする漢籍でした。書の美しさに引かれたからということではなく、書かれている内容ゆえだったと思います。

自分が作った会社の経営を任せる人への贈り物として、あるいは祝い事の際に、しばしば漢籍から言葉を選んで揮毫きごうしました。特に好んで揮毫した言葉のひとつに、儒学の朱子学の中の一節「順理則裕じゅんりそくゆうことわりしたがえば、すなわゆたかなり)」があります。渋沢が「みんなで豊かになろう」という気持ちを強く持っていたことが感じられる言葉ですね。大河ドラマでも取り上げられていましたし、「青天を衝け」展では、渋沢が秩父セメント(当時)の常務取締役のためにこの言葉を揮毫した書を展示しました。

渋沢は、単に金もうけを目指すのではなく、その稼いだ利益を何につなげるのかということを深く考え、公的事業などを通して多くの人々が豊かになれるように心を配りました。そうした思いを各企業のトップにもつないでいってほしいという気持ちがとても強かったと思います。

埼玉県立歴史と民俗の博物館内部(同館提供)
数字のラベルが手がかりに!?

―渋沢旧蔵の美術品の一部には、箱に数字が書かれたラベルがついているそうですね。

「青天を衝け」展の事前調査で東京都公文書館にうかがったときに、松平定信が描いた「関羽図」の箱に、四つ角を落とした形のラベルが貼ってあることに気づきました。この絵は、渋沢の旧蔵品で養育院に寄贈されたものです。ラベルには、渋沢蔵と書いてあるわけではなく、数字だけが記されているのですが。

その後、同じ形と筆致のラベルが、下村観山の「富士」(華鴒はなとり大塚美術館)、観山の「維摩居士図ゆいまこじず」(横浜美術館)、橋本雅邦がほうの「松下郭子儀梅竹鶴図しょうかかくしぎばいちくかくず」(渋沢史料館)の箱にも見つかりました。

これは「渋沢栄一の旧蔵品だということを示すラベルではないか」と思いました。渋沢の旧蔵品は散逸しており、旧蔵品リストも見つかっていないため、あくまで推論ですが、渋沢の没後に財産を整理した際、古美術に冠する通し番号として、こうしたラベルを付けたのではないかと考えています。もしかしたら今後、ほかの美術館や博物館で、箱に同様のラベルが付いている作品が見つかるかもしれません。

―「青天を衝け」展で関連品を一堂に展示したことで、渋沢研究にもさらなる広がりが出てきたのではないでしょうか。

渋沢史料館や渋沢栄一記念館(埼玉県深谷市)を始め、研究者の方々から多くのコメントをいただきました。渋沢栄一記念館からは、渋沢の従兄いとこで、富岡製糸場の初代場長を務めた尾高惇忠じゅんちゅうゆかりの絵画を所蔵していることを教えていただき、当館での特集展示(2021年12月19日まで)が実現しました。

実は、「青天を衝け」展は、コロナ禍の影響で開幕日が延び、ドラマの関係者を迎える予定だった開会式も中止になりました。また、今回は巡回展はなく、単館開催となりました。渋沢は全国各地に足跡を残していますので、今後ますます、渋沢研究が盛り上がり、新札の流れもありますので、新たな発見につながっていけばうれしいです。

◇ ◇ ◇

井上海・埼玉県立歴史と民俗の博物館学芸員(鮫島圭代筆)

渋沢栄一の知られざる側面に驚かれた方も多いのではないでしょうか。旧蔵品を探す研究の今後も楽しみですね。次回は、井上さんが日本美術に魅了されたきっかけや、学芸員になるまでの紆余うよ曲折の道のり、そして、「歴史と民俗の博物館」が誇る葛飾北斎の名画の魅力もうかがいます。

わたしの偏愛美術手帳 vol. 18-下に続く

【井上海(いのうえ・うみ)】1990年生まれ。埼玉県出身。学習院大学文学部哲学科卒。同大学院人文科学研究科(美術史学専攻)博士課程満期退学。千代田区立日比谷図書文化館の文化財事務室学芸員などを経て、20年4月より埼玉県立歴史と民俗の博物館学芸員。担当した展覧会は、千代田区×東京ステーションギャラリー「夢二繚乱」(18年)、NHK大河ドラマ特別展「青天を衝け~渋沢栄一のまなざし~」(21年)。

鮫島圭代

プロフィール

美術ライター、翻訳家、水墨画家

鮫島圭代

学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/

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