2022.1.14

【大人の教養・日本美術の時間】わたしの偏愛美術手帳 vol. 22-上 金子昭彦さん(岩手県立博物館学芸員) 

「遮光器土偶」(岩手県岩手町・豊岡遺跡出土)

「わたしの偏愛美術手帳」では、各地の美術館の学芸員さんたちに、とびきり好きな「推し」の日本美術をうかがいます。美術館の楽しみ方といった、興味深いお話が盛りだくさん。このシリーズを通じて、ぜひ日本美術の面白さを再発見してください!

今回お話をうかがったのは、岩手県立博物館(盛岡市)の金子昭彦・学芸員です。紹介してくださるのは、「遮光器土偶しゃこうきどぐう」(岩手県岩手町・豊岡遺跡出土、岩手県立博物館蔵)。縄文時代の人々が、なぜこれほど不思議な姿の土の人形を作ったのか、そのヒミツを解き明かします。

「遮光器土偶」(岩手県岩手町・豊岡遺跡出土) 全長 22.7 cm
再現不可!

―豊岡遺跡出土の「遮光器土偶」についてお聞かせください。

作られたのは今から3000年ほど前、縄文時代晩期の初め頃です。遮光器土偶が作られた期間は700年間ほどで、そのなかでは最初の頃です。

土偶は普通、割れた状態で出土しますが、この遮光器土偶は、向かって左の手先がほんの少し欠けているのと、鼻が少しすり減っている程度です。このように、ほぼ完全な形で出土した遮光器土偶は、私が知る限り、ほかに宮城県・恵比須田えびすだ遺跡出土の遮光器土偶(東京国立博物館)ぐらいしかなく、たいへん貴重です。

なかの真ん中に、縦の線が表されていますね。人間は1個の受精卵がまず二つに細胞分裂し、さらに細かく分裂していって人間の形になるため、体の真ん中に「正中線せいちゅうせん」と呼ばれる縦の線があります。普段は見えませんが、女性が妊娠してお腹が膨らむと、くっきりと見えるようになります。土偶は出産や豊穣と関係すると言われており、正中線は多くの土偶に表されています。なお、正中線の周りに表されているカーブした模様や、体全体に小さな縄を転がしてつけた模様は、制作当時に流行していたデザインと思われ、同時期の土器にもみられます。

この土偶は中が空洞になっており、粘土ひもを輪っかにして積み上げて作られたと考えられます。粘土が乾いてしまうと、表面に別の粘土を貼りつけたり、縄を転がして模様をつけたりすることが難しいため、手際よく制作することが必要だったでしょう。

頭の上には、土偶を焼きあげる際に割れることのないよう、空気が抜けるあなが開いています。当時は、現代のような窯はなく、たき火のように野焼きをしたので、火力の調整がものすごく難しかったはずです。どのように調整していたのか、皆目見当がつきません。稲作の時代であれば、稲わらをたき火の上にかぶせて熱を均等に行き渡らせることができたと思いますが、この土器が作られたのはその前の時代ですから、「縄文人はすごい」と感動します。

岩手県立博物館の外観(同館提供)
土偶作りの中心地

中が空洞の遮光器土偶を作るには高度な技術がいるため、誰もが作れたわけではないと思います。東北地方、なかでも、岩手県で多く出土しており、デザインも画一的なので、おそらく岩手県のどこかで専門的に作って、各地に供給していたのでしょう。場所の特定は難しいのですが、私の生涯をかけてどうにか明らかにしたいと思って研究しています。なお、形をまねた土偶は、北海道や関東、そして、東北から遠く離れた神戸でも出土していますが、技術的には遠く及びません。

―岩手県は遮光器土偶の出土数、ひいては、土偶全般の出土数も日本一とのことですが、多くの優れた土偶が作られたのはなぜですか。

その理由は、自然の恵みの豊かさでしょう。縄文人の生活は食料を手に入れることが最優先でしたが、それが容易に達成できる地域では、工芸品を作って交易することに多くのエネルギーが注がれました。ですから、工芸品が出土しない地域は食べるのがやっとだったことが想像できますし、一方、食料に余裕がある地域では、余った時間に土器や土偶をどんどん作っていたことがわかります。

特に遮光器土偶は、自然の恵みが豊かな地域からしか出土していません。「食べ物がいっぱい採れますように」などと祈る対象として用いるのであれば、手近で見つけたきれいな石に祈ってもいいわけです。わざわざ労力と技術力を注いで遮光器土偶を作ったということは、豊かな収穫に恵まれていたと考えられます。

岩手は起伏のある地形が多く、谷沿いや川沿いに多く育つ木の実が豊富に採れました。気温は温暖化が進んだ今よりは少し寒く、おそらく昭和の末頃の気温だったと思います。

横から見た「遮光器土偶」
ケータイするお守り!?

―土偶はなぜ壊れて出土することが多いのでしょうか。

考古学では長らく、「縄文の人々が祈りの儀式などで土偶をわざとたたいて壊したのだろう」と言われてきました。ですが、土器が壊れた状態で出土しても、「わざと壊したのだろう」とは誰も考えないのに、土偶だけを特別扱いするのは不自然だと思いませんか。私は、土偶も土器と同じく、使ううちに壊れたのだろうと考えています。現代でも、大切な人形であれば、多少壊れても持ち続けることがありますよね。特に、中が空洞の遮光器土偶は高い技術で作られたものですから、壊れても捨てないことがあっただろうと思います。

ほかの多くの土偶にも言えることですが、この遮光器土偶は、立体的なのは頭だけで、横から見ると体が平らです。そして、後頭部がすごくすり減っているため、かなり長い間、土偶の背面が何かに当たってこすれ続けたのだろうと思います。もし1か所に置いていたら、こうはならず、持ち歩かない限り、これほどすり減ることはないでしょう。

「遮光器土偶」の後頭部

縄文時代は、主に男性が狩猟をして、女性が植物の採集や加工を担っていたというのが定説です。そしてこうした土偶は、植物が主な食糧だった時期にとりわけ多く作られたことがわかっています。当時の森は現代よりもずっと奥深く、女性たちにとって木の実などを採りに行くのは恐ろしいことでもあったと思います。そこで私は、女性たちがこうした土偶をお守りとして持ち歩いたのだろうと解釈しています。

この土偶は縦の長さが22センチほどです。こんな大きなものを持ち歩いたというのは、少し荒唐無稽な想像かなとも思うのですが。遮光器土偶には50センチぐらいのものもあったようですが、とはいえ、多くは縦10~15センチ程度と、スマートフォンほどのサイズです。体の部分は平らですし、片手で持ちやすいサイズですよね。

―手に持つお守りとして改めて土偶を見ると、いっそう愛着がわいてきますね。

私はこうした説を、企画展「遮光器土偶の世界」(2017年)を担当した頃にまとめたのですが、従来の「縄文人が意図的に土偶を壊した」という説は今も根強いです。一般的には、大事な人形を割れた状態で持っていたというのはなかなか受け入れがたく、わざと壊したと考えるほうが納得しやすいのでしょう。でも私は、大事にしたからこそ、割れても捨てずに持っていたのだろうと思うのです。

「No Art, No Life」

―遮光器土偶の特徴といえば大きな目ですが、なぜこのように表現したのでしょうか。

当時の流行ですね。現代の歴史を振り返っても、1970年頃は極端なミニスカート、2000年頃には厚底靴など、時々、驚くような流行が起きますよね。その一環と考えれば理解できると思います。この時期は、目をすごく大きく表現するのがかっこよいトレンドだったのでしょう。

―土偶をお守りとして森の中に持って行くとしたら、ここまで目力があると心強いように思います。

たしかに、目力が重要だった可能性もありますね。もしかしたら、悪いものを凝視することで近くに寄らせないという意味があったのかもしれません。

―縄文時代には遮光器土偶のほかにも、火焔かえん型土器など、あっと驚くような造形が多いですが、縄文人は「表現したい」という気持ちが強かったのでしょうか。

ええ。それこそが、弥生時代以降の美術品との違いだと思います。というのも、縄文時代には、自分が素晴らしいモノを作れたと思っても、ほかの人もそう思ってくれる保証はなく、あくまで作り手の自己満足だったのです。ところが、弥生時代以降は、「これは○○産だからものすごく価値が高い」といった判断基準が共有されて、価値が担保されるようになります。さらには、そうした価値観を知らないとバカにされてしまうという状況も生まれていったでしょう。そうした価値観がまだなかった縄文時代の土偶や土器を見ていると、「表現したいから作る」という作り手の情熱を感じます。いわば、「No Art, No Life」「工芸やらなきゃ、死んだも同然」という生き方だったのではないかと思うのです。

◇ ◇ ◇

金子昭彦・岩手県立博物館学芸員(鮫島圭代筆)

金子さんのお話から、縄文時代の人々が、評価を他人にゆだねることなく、自分の中から生まれてきたものを自分で肯定して、情熱のまま表現していった様子が目に浮かびました。今の私たちにも学ぶことが多い生き方のように思えます。次回は、金子さんが遮光器土偶の研究へと導かれた道のりや、発掘調査を通じて広がった研究者ネットワーク、そして、岩手県の博物館ならではの企画展についてうかがいました。

岩手県立博物館グランドホールからの岩手山の眺め(同館提供)

わたしの偏愛美術手帳 vol. 22-下に続く

【金子昭彦(かねこ・あきひこ)】1964年生まれ。静岡県磐田市出身。90年、早稲田大学大学院文学研究科史学(考古学)専攻修士課程修了、岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター入所(文化財専門調査員)。2015年、岩手県立博物館に配置転換(主任専門学芸員)。17年、企画展「遮光器土偶の世界」を担当。20年、上席専門学芸員、21年から学芸第一課長。著書に「遮光器土偶と縄文社会」(01年、同成社)、編著に「月刊考古学ジャーナルNo.745 特集 今日の土偶研究」(20年、ニューサイエンス社)のほか、土偶に関する論文、寄稿多数。

鮫島圭代

プロフィール

美術ライター、翻訳家、水墨画家

鮫島圭代

学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/

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