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2020.5.22

【大人の教養・日本美術の時間】日本スター絵師列伝 vol. 4 曽我蕭白

蕭白の仙人と竜(鮫島圭代筆)

江戸時代半ば、幕府のお膝元・江戸から遠く離れた京都の文化は、自由な精神に満ちていました。円山応挙まるやまおうきょ長澤蘆雪ながさわろせつ伊藤若冲いとうじゃくちゅう池大雅いけのたいがなど、個性あふれる絵師たちがそれぞれの画風を究めたのです。

なかでも「鬼才」という言葉がぴったりなのが、今回の主人公、曽我蕭白そうがしょうはくです。

一度見たら忘れられない強烈で破天荒な作品が多く、また、飄々ひょうひょうとした人柄を伝えるさまざまな逸話も知られます。

さすらいの絵師

蕭白の父は、京都で「丹波屋」という染物屋を営み、兄が江戸の支店を任されていたといわれます。しかし、数え11歳の時にその兄を、そして14歳で父を、さらには17歳で母を亡くしました。幼い妹はいたものの、この若さでほぼ天涯孤独の身となったのです。

その後、蕭白は30代にかけて、各地のお寺などに逗留とうりゅうしては絵を描く放浪生活を送りました。生まれ育った染物屋の伝手つてを頼ってか、木綿の生産地・伊勢(三重県)と播州(兵庫県)には、それぞれ2回長期滞在しています。

時を経て明治時代、日本画家・桃沢如水ももさわじょすいは、蕭白の人生や作品を調べ、美術雑誌に連載しました。その記録は蕭白研究の基軸となっており、蕭白の破天荒な生きざま、そしてこの放浪の絵師を快く迎え入れた人々の懐の深さや、おおらかな時代の空気を伝えています。

如水が記したエピソードをひとつご紹介しましょう。

ある時、蕭白は伊勢の久居ひさい藩に招かれ、金屏風きんびょうぶを描くよう命じられたといいます。しかし、毎日酒を飲み、ご馳走ちそうを食べて寝てばかりで一向に描こうとしません。頭の中で絵の構想を練っていたのですが、はた目にはそうと知れず、業を煮やした家老がついに催促します。すると蕭白は、大量に墨をらせてすり鉢に入れ、そのなかに紺青こんじょう金泥きんでいなどの高価な絵の具を混ぜ、ほうきに絵の具をつけて金屏風に線を引き、そのまま家老の顔にまで筆を走らせて立ち去ったといいます。そして残された金屏風には美しい虹が描かれていたとか。

33歳頃の作品「富士・三保松原図屏風」には、まさしく大きな虹が描かれており、この逸話を連想させます。

蕭白-その名の由来

若くして世間の荒波に放り出された蕭白。一人たくましく身を立てるためか、偉大な人物の末裔まつえいを名乗り、絵のサインに記すことがよくありました。

本来の姓は三浦だったためか、鎌倉時代初めの豪族・三浦義明の末裔と名乗ったり、藤原鎌足の子孫であると称したり……。

そもそも「曽我蕭白」という画号自体、室町時代に活躍した曽我派の絵師・曽我蛇足そがじゃそくの10代目だとして名乗ったものです。当時の画壇の主流は狩野派でしたから、世間から半ば忘れられていた曽我派をルーツとしたのは、名もなき青年絵師が打って出た戦略だったのでしょう。さらには、大ぼら吹きか、いたって真面目か、中国・明の初代皇帝・洪武帝こうぶていを蛇足の先祖だと考え、そのため自分も洪武帝の子孫だと記すこともありました。

曽我派は、中国の宋・元時代の水墨画に学んだ「漢画派かんがは」と呼ばれる室町時代の流派のひとつです。蕭白はその看板通り、室町時代の水墨画を学んで高度な画技を身につけました。

漢画の流れを汲む蕭白は、中国の故事に登場する仙人などを数多く描きました。とはいえ蕭白の仙人は、俗世から離れた清らかな姿というよりむしろ、いやらしさや意地悪さなど人間臭さを感じさせます。若い時から苦労し、放浪生活を通してさまざまな人と出会い、人生経験を積んだことが反映されているのでしょうか。

蕭白芸術ここに極まれり

なかでも有名なのが、35歳の作と伝わる「群仙図屏風」です。

この絵の依頼主は、生まれてきた子供の長寿や出世を願って注文したらしく、仙人のほか、中国風のいでたちをした子どもである唐子からこや、鶴やこい、亀などのおめでたいモチーフが詰め込まれています。

ですがその印象は、不気味で奇抜! 子供が見たら間違いなく怖がりそうな、気味の悪い顔の仙人や唐子が並び、波や風などあらゆるものが奇怪にうごめいているのです。鳳凰ほうおうの羽や竜のうろこなどは、ずば抜けた画力で緻密ちみつに描き込まれており、まさに超絶技巧のオンパレードです。

蕭白は染め物屋で育ったためか、色彩感覚も抜群でした。この絵は全体が墨で描かれ、そのなかに鳳凰や鶴、人物の服などが青、赤、白、黄色などで表されています。白黒の世界のなかに、無遠慮と言えるほど鮮やかな色が浮き立ち、見る者の神経を逆撫さかなでするのです。

蕭白の唐獅子(鮫島圭代筆)

高価な絵の具が使われているため、注文主はよほどの人物だったのでしょう。とはいえ、蕭白は普段、絵の具になかなか手が届かず、それを逆手に、限られた色を効果的に使う技を磨いたようです。

43歳の頃、蕭白は長きにわたったさすらいの日々にようやく終止符を打ち、故郷・京都に落ち着きました。46歳の時には、京都の文化人名録『平安人物志』の画家の部に応挙、若冲、大雅らとともに名前が載ります。京都を代表する画家として認められ、悠々自適の日々を送ったのです。

筆一本で大成した蕭白でしたが、晩年、またも最愛の家族を失いました。48歳の時、幼い息子を亡くしたのです。そして4年後、52年の生涯を閉じました。

つらい経験を経て、各地を放浪し、多くの人と出会いながら磨かれていった蕭白の芸術。

奇想天外な作品が目を引く一方で、愛らしい花や鳥の絵も見逃せません。東京国立博物館やボストン美術館など国内外の美術館のウェブサイトで、さまざまな作品を眺めることができますよ。

蕭白は実のところ、長らく美術史研究の主流から忘れられ、再評価されたのは、1970年に刊行された美術史家・辻惟雄つじのぶおの名著『奇想の系譜』がきっかけでした。2019年にはこの本をベースにした「奇想の系譜」展が東京都美術館で開催されたばかりです。読んだことがない方は、こちらもぜひチェックしてみてください。

鮫島圭代

プロフィール

美術ライター、翻訳家、水墨画家

鮫島圭代

学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/

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