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墨づくり(鮫島圭代筆)

2020.4.17

【大人の教養・日本美術の時間】墨のひみつ

書道の時間に墨をったことはありますか?

私は小学校で水墨画を教えることがありますが、「初めて固形の墨を何に使うか知った」とか、「墨を初めて磨った」といった声をよく聞きます。ふだんの書道の時間では墨汁を使うためです。ちなみに墨汁は戦後、書道の授業中に墨を磨る時間を省くために開発されました。

墨は、明治時代に鉛筆が普及する以前は、文字を書いたり線を引いたりするあらゆる場面で使われていました。書道や水墨画はもちろん、日本画でも「墨に始まり墨に終わる」といわれるほど表現の要とされています。

古代中国では、漢の時代にすでに墨づくりが行われ、日本では奈良時代に始まったようです。

では墨とは、いったい何なのでしょう? 

答えは、すすにかわを練り合わせて固めたものです。

墨に使う煤とは?

墨は一見、真っ黒ですが、実は「青墨せいぼく」と「茶墨ちゃぼく」という2種類があります。

書き比べてみると、微妙に青みを帯びた墨と、わずかに茶色がかった墨があるのです。

この違いは、煤の原料の違いにあります。

青墨は「松煙墨しょうえんぼく」とも呼ばれるとおり、松の木を燃やして集めた煤を使います。

松脂まつやにをたっぷり含んだ松の枝を、部屋のなかで燃やし、周囲の障子や天井についた煤を集めるのです。

一方、茶墨は「油煙墨ゆえんぼく」ともいい、植物油を燃やして集めた煤を使います。

菜種油や胡麻ごま油などを陶器の皿に入れ、灯心を浸して火をつけます。炎の上に蓋をかざしておくと煤がつくので、これを集めて使います。

墨が日本で奈良時代に作られ始めた頃は松煙墨で、平安時代末頃から油煙墨も作られるようになったそうです。現代では、松煙墨を作る工場は少なくなり、その一方で、油煙墨に青い染料を混ぜた青墨も広く生産されています。

膠とは?

それでは、膠とは何でしょう?

答えは、動物や魚の骨や皮などのコラーゲンを煮出して乾燥させた琥珀こはく色のかたまりで、接着剤や凝固剤のような働きをします。

墨は、煤を膠と練り混ぜて固めたものなので、墨を磨ると水の中に煤が溶けだします。そして、筆につけて書くと、膠の働きで煤が紙の上に定着するのです。

膠にはほかにも、煤と水をなじませたり、書くときに適度な粘りを出したり、つやを与えたりする効果があります。

書道の時間に服に墨をつけてしまい、落とすのに苦労した経験はありませんか? 膠の働きで、墨はなかなか落ちません。また、膠のおかげで、美術館に展示されている千年以上も昔のお経や古文書が鮮やかな墨色をとどめているのです。

墨の作り方

ではここで、伝統的な墨づくりをご紹介しましょう。

まずは、松、もしくは植物油を燃やして煤を集めます。

そして膠を湯煎して溶かし、煤と混ぜ合わせます。膠は寒いと固まり、暑いと腐ってしまうので、墨づくりは冬に行います。

続いて、麝香じゃこう竜脳りゅうのうなどの香料を加えます。

墨を磨ると、香料のかぐわしい匂いが広がり、心が休まりますよね。香料には、膠本来の匂いを打ち消す役割もあります。

そして、煤、膠、香料を混ぜたものを、台の上でたたいたり、足で踏みつけたりして、つやが出るまでなめらかに練り上げます。

墨 1 個分の大きさにちぎって丸め、長方形などの木型に入れ、圧力を加えて、墨の形に成形します。この木型には、あらかじめ墨の表面につける文様や文字が刻まれています。

続いて墨を乾かす工程です。いきなり空気にさらすと墨にひびが入ってしまうので、まずは湿らせた灰の中に埋めます。そして毎日灰を取り換えながら、徐々に湿気の少ない灰に変えていきます。

十分乾燥できたら、わらひもなどでくくり、天井からるして、数か月から数年間、自然乾燥させます。

その後、丁寧に水洗いして汚れを取り、ハマグリの貝殻で表面を磨いて、つやを出します。

最後に、木型でつけておいた文様や文字に色を塗ったり、金箔きんぱくを貼ったりして仕上げます。

乾かしてから、和紙に包んで箱に入れれば完成です。

このように、伝統的な墨づくりは、寒い冬、全身煤まみれになりながら行う重労働であり、完成までに長い期間がかかります。昔は、「墨を惜しむこと金のごとし」といいならわされていたといい、その言葉の重みが感じられますね。

古くから「墨に五彩ごさいあり」といわれるとおり、墨は黒一色ではありません。水墨画では、淡い墨から濃い墨まで異なる濃淡で描くので、ときに画面から色彩さえ感じることができます。

そして本当に良い墨は20~50年置いたものだとか。適切な環境で保存すると、膠が成熟し、墨色の深みが増し、100年を超えても美しく発色するそうです。

墨の美しい色を引き出すには、すずりも重要です。最近の学校教育ではプラスチック製の硯が使われていますが、本来は天然の黒い石です。

硯の表面には細かい凹凸があるため、墨を磨ることができるのですが、力まかせに磨ると墨の粒子が粗くなり、本来の墨の色が出ません。ことわざで「墨は餓鬼に磨らせ,筆は鬼に持たせよ」といいます。これは、墨を磨るときにはできるだけ力を入れず、描くときには力を込めて勢いよく筆を動かすべきだ、という教えです。

墨の保管のしかたも重要です。気温の変化が激しい場所や、直射日光が当たる場所に置いておくと、墨にひびが入りやすくなるのです。また湿気が高いと膠が腐りやすくなります。そのため、墨を使った後は、磨り口の水分をよく拭き取り、購入時に入っていたきりや紙の箱に入れて引き出しや木箱に入れて保管します。

さあ、みなさんもさまざまな墨を見に、画材店に行ってみませんか?

おっと、その前に墨の単位も学んでおきましょう。墨は1個、2個ではなく、1ちょう、2丁と数えます。また、墨の大きさは、15グラムを1丁型といい、2丁型だと30g、3丁型だと45g… … となります。

奈良や和歌山には、墨づくりの見学や体験ができる工場もありますよ。気になる方は調べてみてください。

龍(大観写し)(鮫島圭代筆)

鮫島圭代

プロフィール

美術ライター、翻訳家、水墨画家

鮫島圭代

学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/

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