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2021.8.13

【大人の教養・日本美術の時間】わたしの偏愛美術手帳 vol. 8-下 春木晶子さん(江戸東京博物館学芸員)

「武蔵野図屏風」

銀座煉瓦れんが街(江戸東京博物館の常設展示から)

江戸東京博物館(東京都墨田区)の春木晶子学芸員へのインタビュー。今回は、恩師との出会い、北海道ならではの、アイヌ絵の研究に導かれた経緯、そして、絵の読み解きの極意や楽しさをうかがいました。

―子どもの頃から美術がお好きだったのですか?

幼稚園の頃は絵を描くのが好きでしたが、小学校では焼き物にはまりました。陶芸クラブの部長でした。焼き窯があり、土から釉薬ゆうやくをつかってうつわを作って、とても楽しかったですね。生まれ育った札幌市には美術館があり、ゴッホ展など大きな展覧会には、両親に連れて行ってもらいました。でも、劇団四季の演劇を見る方が好きでした(笑)。

恩師との出会い

―美術研究の道に進もうと思い立ったのはいつですか?

北海道大学文学部に入ってからです。2年生で専門に分かれる際に、いろいろな研究室を見学したなかで、芸術学研究室の鈴木幸人ゆきと先生に出会ったことが決定的でした。鈴木先生は大阪市立美術館で学芸員をされて、フェルメール展や円山応挙展など、大規模な展覧会を数多く手がけた方です。関西圏に広いネットワークをお持ちで、現役の学芸員の方にお会いしたり、いろいろなお寺に調査に行ったりする機会を与えてくださいました。

その後、大学院の修士課程1年生の時に、学芸員資格を取るための博物館実習として、2週間、正木美術館(大阪府忠岡町)に行きました。そこで学芸員の高橋範子さんに出会って感銘を受け、学芸員になることを決意しました。高橋さんは、非常に情熱的に、じっくり作品と向き合い伝えていくという姿勢で。今もお仕事ぶりを思い出すだけで、身が引き締まる思いがします。

-鈴木先生と高橋さんに共通する哲学のようなものがあるのでしょうか?

ええ、それは作品への敬意だと思います。作者や、作品を受け継いできた人々のことを想像し、作品が今日まで残っているということの奇跡に思いをはせるのです。そうすると、おのずと作品を大切に扱いますし、いかにこの作品を人々と出会わせるか、ということを考えるのかと思います。

芝居小屋・中村座(正面部分、江戸東京博物館の常設展示から)
助六の舞台(江戸東京博物館の常設展示から)
凌雲閣りょううんかく (浅草十二階)
(江戸東京博物館の常設展示から)
アイヌ絵の研究に導かれて

修士2年生のときに、北海道開拓記念館(現・北海道博物館)の学芸員になりました。1年間は二足のわらじで。道立の総合博物館なので、考古や歴史、生活民俗、アイヌ民族学などの各分野を担当する30人くらいの学芸員がいて、美術の担当は私ひとりでした。私以外は男性ばかり。年齢も一番近くて10歳年上という、それまでとはまったく違う環境でしたね。

北海道の絵画を調査研究されていた林昇太郎さんが亡くなられて、その後任として入ったのです。林さんが残された膨大な資料を読んでいるうちに、いつの間にか、その研究を引き継いでいました。北海道には、江戸~明治時代に、本州から来た人々が北海道やアイヌ民族を描いた絵が多く残っており、博物館の収蔵庫にもアイヌを描いた絵がたくさんありました。北海道ならではの研究分野で、当時は研究者もわずかでした。

アイヌ絵は、江戸時代中期以降に数多く制作されるようになりました。昆布やニシンの交易が盛んになり、出版文化も盛り上がって、さらには、ロシアの南下を危惧する幕府の調査などもあり、蝦夷えぞ地への関心が高まったのです。

日本美術には、過去の絵を写す、という伝統がありますが、アイヌは新しく登場した画題でした。そのため、「外なるもの」を描いた過去の絵からイメージを引っ張ってきて、ステレオタイプとしてのアイヌの姿を造形したのだと思います。当時のさまざまな絵を見ていると、鬼や妖怪、仙人、外国人など、「外なるもの」の区別は曖昧であったように感じますね。

2015年に、北海道開拓記念館がアイヌ民族文化研究センターと統合して、北海道博物館(札幌市)になったときの記念展「夷酋列像いしゅうれつぞう ―蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界―」を担当しました。

「夷酋列像」(仏ブザンソン美術考古博物館所蔵)とは、江戸時代に、北海道の松前藩主の息子、蠣崎波響かきざきはきょうが描いた12枚の連作で、1枚につき1人のアイヌの肖像画を描いたものです。当時、京都の知識人に披露され、光格天皇も見たという、北海道史上、非常に重要な絵です。

アイヌの若者たちが松前藩に蜂起し、首謀者が処刑されるという事件があり、その際、アイヌの長老たちが若者たちを説得して、戦いをおさめたといわれます。その長老たちをたたえるために、その姿を描いたのが「夷酋列像」といわれます。うまく統治していることを示したいという、為政者側の思惑のもとで描かれたのです。

屏風の伝統からアイヌ絵を読み解く

「夷酋列像」を見ていくうちに、この作品は、屏風びょうぶに見立てて描かれたのではないかと思いました。「夷酋列像」は、前半6枚、後半6枚の合わせて12枚としていたようで、6面の屏風を二つ組み合わせて12面とする、屏風ではおなじみの構成です。日本では古来、屏風の右と左に、太陽と月を対照的に描くものがあります。太陽は太陽の上る東に、月は月の沈む西に結びつき、屏風の右は太陽と東、左は月と西に対応するという伝統があります。「夷酋列像」もその伝統を踏まえたものだと気がついたのです。

ちょっと話がそれますが、その流れで研究したのが、曾我蕭白そがしょうはくの「群仙図ぐんせんず屏風」です。この屏風は、奇抜で謎めいた描写で知られますが、「夷酋列像」での発見を応用したら、どういう意図で描かれたのかが解けそうだと思ったのです。例えば、子どもが6、7人並んでいる描写があるのですが、これは、「六連星むつらぼし」、すなわち、星座のすばるを表しているのではないかと。そういうことを一生懸命考えていたら、すごく楽しくなって(笑)。「群仙図屏風」の右端には薫奉とうほう、左端には西王母せいおうぼという仙人が描かれており、薫奉は東方朔とうぼうさくという仙人と音が重なっています。これは、屏風の右と左に東と西を織り込んだ例だと考えました。

絵の細部から広がる発見

ここで「夷酋列像」に戻って、12枚のうちの1枚目をじっくりと見ていくうちに、長老が着る着物の上に引かれている金の細い波線に気づきました。すると、この金の線が着物全体に入っていることにも気がついて。この長老は、金糸で織った豪華な着物をまとった重要な人物だと思い至ったのです。

この着物には、東の守護神である「青龍」の文様がついています。また、絵の右上に、地名「烏蝋亞斯蹩子(ウラヤスベツ)」と、人物名「麻烏太蝋潔(マウタラケ)」が記されていますが、アイヌの名称は普通カタカナで書かれるので、変わった組み合わせで漢字が当てられているのが、ずっと疑問でした。「烏」と「太」の字が金で書かれていることに着目すると、太陽にはカラスがすむとされ、太陽は「金烏きんう」とも呼ばれますから、この肖像画は、太陽と東を示しているのではないかと思って。

それで、あらためて12枚目を見て、描かれる「老婆」が仙女西王母に見立てられていることを発見しました。「夷酋列像」も「群仙図屏風」と同じく、東と西、太陽と月の対比を成していたのです。

-一本の線に気づいたことで、発見が一気に広がったのですね。

そうですね。蕭白の絵にしても、「奇抜な人だったのかな」で済ませていたら、何も始まりません。「こう描いたのには何か理由があるはずだ」という、絵師への信頼から、読み解きが始まるのです。学芸員として、そうした体験をたくさん提供していけたらと思っています。

◇ ◇ ◇

春木晶子・江戸東京博物館学芸員(鮫島圭代筆)

お話をうかがいながら、一本の線にまで丁寧に寄り添い、深く鑑賞できたら、きっとその作品を描いた絵師もうれしいはず、と思いました。みなさんも、気になる日本美術に出会ったら、ぜひ細部までじっくりと眺めてみてください。多くの気づきが待っていることと思います。

【春木晶子(はるき・しょうこ)】1986年生まれ。北海道大学文学部人文科学科卒、米ポートランド州立大学留学、北海道大学大学院文学研究科博士前期課程終了。2010年から北海道博物館学芸員、17年から江戸東京博物館学芸員。担当展覧会に「夷酋列像 ―蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界―」(北海道博物館ほか、2015~16年)、「相撲の錦絵と江戸文化」(江戸東京博物館、21年9月5日まで開催中)ほか。共著に『北海道史事典』(「アイヌを描いた絵」、16年)ほか。

鮫島圭代

プロフィール

美術ライター、翻訳家、水墨画家

鮫島圭代

学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/

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