2021.3.24

【大人の教養・日本美術の時間】 わたしの偏愛美術手帳 vol. 2-上 清水実さん(三井記念美術館学芸部長)

藤原定家筆 国宝「熊野御幸記」

藤原定家筆 国宝「熊野御幸記」(冒頭部分)
(三井記念美術館)

「わたしの偏愛美術手帳」では、各地の美術館の学芸員さんたちに、とびきり好きな「推し」の日本美術をうかがいます。美術館の楽しみ方といった、興味深いお話が盛りだくさん。このシリーズを通じて、ぜひ日本美術の面白さを再発見してください!

今回は、三井記念美術館の清水実・学芸部長にお話をうかがいました。清水さんが紹介してくださるのは、鎌倉時代の藤原定家筆、国宝「熊野御幸記くまのごこうき」。その魅力を、筆跡から透けて見える定家の面影や、近年の新発見を中心に語っていただきました。

熊野詣での道中をありありと伝える

-熊野御幸記にはどんな魅力がありますか?

藤原定家が後鳥羽上皇に付き従って、京都から熊野に行き、帰ってくるまでの道中がずっと書いてあるわけです。800年前の定家自筆の記録ということで、それだけで畏れ多いですよね。

各地の王子社への参詣や和歌会など、いろいろなことをしながら熊野へ向かう様子が記されているので、非常に面白いのです。定家はこの時、40歳ぐらいで、貴族ですから、それほど体力がないと思うのですが、結構タフですよね。だんだん体調が悪くなって、ヘロヘロになっていくのですが(笑)、京都に帰ったあとも、家で寝ているわけではなく、ちゃんと日吉神社へ御礼のお参りに行っていますから。私は修験道の研究をしてきたので、貴族の周りで世話を焼きながら道案内をする、修験道の先達たちの様子がわかるのも楽しいですね。

「熊野古道」
(「平成の熊野古道」から。清水実さん提供)

これは、定家が日記として書いたもので、「明月記」(定家19~74歳の自筆の日記)の一部とされます。当時の公家は、あとで前例として参照するためにこうした記録をつけました。定家も、自分用としてだけではなく、将来、子孫が自分と同じような役職に就いたときに参照できるように書き残したのです。同様の目的で、他の人の日記を書き写したりもしています。

私が三井文庫別館に勤め始めて4年目の1987年に、「館蔵名品展」を開催したのですが、その時に熊野御幸記を自分で活字化しようと思いたちました。それ以前にも活字化されたものはあったのですが、写本を参照しているようなところがあったので、私は実物を見ながら活字にしたのです。そのあと、2009年に明月記研究会との共編で出版した「国宝 熊野御幸記」(八木書店)がより正確で、今はこれが決定版になっています。

藤原定家筆 国宝「熊野御幸記」】鎌倉時代前期の歌人・公家である藤原定家が、建仁元年(1201年)10月に、後鳥羽上皇の4回目の熊野詣でに随行した際の記録。定家は当時、40歳だった。上皇は熊野詣でを計28回行ったが、定家にとっては、最初で最後となった。修験道の先達が参詣者を案内した。京都の鳥羽から淀川を下り、大阪の天満てんま橋辺りから紀伊半島の陸路を和歌山県の田辺へ、そこから、山中の中辺路なかへちを歩いて、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、那智大社・那智の滝)を参詣し、来た道をたどって京都に帰った。道中、80社に及ぶ王子社(熊野三山の末社)に参詣。主要な王子社と熊野三山では、奉幣、御経供養、神楽、和歌会などが行われ、定家は和歌会の講師を務めた。道中、持病の咳病がいびょうが起こり、体調不良を抱えながら旅を続けた。三井北家の三井八郎右衞門(高公)氏が所蔵していた昭和42年(1967年)、国宝に指定された。昭和59年(84年)、三井文庫に寄贈。

清水実・三井記念美術館学芸部長(鮫島圭代筆)
実は写本ではなく、原本

定家は熊野御幸記の冒頭に、「熊野道之間愚記 略之」と書いています。そのため、この日記は、長らく、定家が熊野詣での道中に書いた原本をもとに、京都に帰ってきたのちに、略しながら書き写した「写本」の可能性を否定できませんでした。

ところが、5、6年前に文化庁に申請して熊野御幸記を修理したところ、この日記の最後の方が「合い剥ぎ」といって、1枚の紙を表裏の2枚に剥いで、裏打ちされていることがわかりました。

定家は、13紙を横に継いだ紙をくるくる巻いて携帯し、旅の間、日記を書き付けていったのですが、20日目くらいで、余白がなくなり、続きは紙の裏面に書いたのです。それを後世に、紙を合い剥ぎして、1巻に仕立てたということです。熊野御幸記は「写本」ではなく、定家が現地で書いた原本だということが確認できたわけですね。

―旅の途中で紙が足りなくなって、慌てる定家の姿を想像すると楽しいですね。

熊野御幸記の定家の筆跡を冒頭から見ていくと、だんだん行間が狭くなっていくのですが、紙の裏面に回ったあとは、行間が少しゆったりとしています。「これでまだ大丈夫だ」といったところでしょう(笑)。

「牛馬童子と宝篋印塔」
(「平成の熊野古道」から。清水実さん提供)
定家が歩いた道をたどって

-清水さんご自身も、熊野古道に行かれたそうですね。

初めて行ったのは、国学院大学史学科だった大学4年生の終わりです。加藤有次先生の博物館実習の旅行が伊勢神宮で解散だったので、そのあと、友人と紀伊半島を列車で回って、京都へ出ようという話になったのです。「那智の滝をぜひ見たい」という思いがありました。その時の那智の滝のインパクトが強くて、とにかくすごいところだな、と感じましたね。それがきっかけで、「神道美術をライフワークにしよう」という気持ちになったのだと思います。

そのあと、「館蔵名品展」のときに、熊野御幸記の取材で行きました。京都、大阪経由で田辺まで行って、そこからは国鉄バスでしたね。2007年に開催した展覧会「美術の遊びとこころ 『旅』」では、レンタカーを借りて熊野古道の各所で撮った写真を熊野御幸記とともに展示しました。

その展覧会の終了後、関西に出張して、他館から借りた展示品を返却してほっとしたときに、熊野古道を少しずつ歩こうと思い立ちました。定家たちがたどった道を、いつか歩いてみたいと思っていたのです。それでさっそく、大阪の天満橋から歩き始めました。

そのあとも、展覧会の出品交渉や作品返却などで関西に出張するたびに、時間を見つけては、前に歩いたところまで列車などで行ってそこから歩くというふうに、古道歩きを続けました。初めは、天満橋商店街の近くのビジネスホテルを根城にしてね(笑)。それで、2018年3月、ついに那智大社までの片道を歩き切りました。

◇ ◇ ◇

そう言って、清水さんが披露してくださったのは、自分で書かれた、数百ページに及ぶ写真入りの日記「平成の熊野古道」です。次回は、実際に熊野古道を歩いて感じたことや、道中の不思議な出会いなどをうかがいます。

清水 実(しみず みのる)】1952年、岐阜県高山市生まれ。国学院大学史学科卒。久能山くのうざん東照宮博物館学芸員を経て、1984年、財団法人三井文庫へ移籍し、三井文庫別館の学芸員となる。以来、三井家から寄贈された茶道具を中心とする美術品の整理・調査研究・展示公開に従事。現在は、三井記念美術館参事・学芸部長。国学院大学神道文化学部兼任講師。専門は、神道美術と茶道美術。「三井家伝世の至宝」(2015年)、「日本美術にみる橋ものがたり」(11年)、「道教の美術 TAOISM ART」(09年)、「美術の遊びとこころ 『旅』」(07年)などの展覧会を企画・監修。共著書に「道教美術の可能性」(10年)、「国宝 熊野御幸記」(09年)、「表千家歴代家元の好みに見る 茶の湯の美と心」(04年)など。

わたしの偏愛美術手帳 vol. 2-下 に続く

鮫島圭代

プロフィール

美術ライター、翻訳家、水墨画家

鮫島圭代

学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/

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