2020.8.17

【大人の教養・日本美術の時間】江戸美人を描く! 喜多川歌麿の美人大首絵

歌麿の鏡を見る美人(鮫島圭代筆)
浮世絵美人画の第一人者

流行の「美人」の基準は、時代ごとに変化します。それは浮世絵の花形・美人画も同じ。多色摺たしょくずりの錦絵が誕生した江戸中期には、鈴木春信はるのぶ可憐かれんな美人画が人気を博し、それから30年程のち、大人の色気漂う作風で美人画の第一人者となったのが、今回の主人公、喜多川歌麿きたがわうたまろです。

歌麿ほどの絵師といえども、浮世絵師の社会的地位が低かったため、その生涯はほとんど伝わっていません。生まれは1750年代前半とされ、出身地も定かではありませんが、上野、神田、そして日本橋に住んだようです。妻子がいたかも不明で、弟子は20人と伝わります。歌麿の名前の読み方さえ「うたまる」だった可能性もあるとか。

江戸時代、絵を志す者は狩野派を学ぶのが王道でした。歌麿も例外ではなく、狩野派の町絵師・鳥山石燕せきえんに学んだようです。浮世絵については、当時人気だった勝川春章かつかわしゅんしょう鳥居清長とりいきよながらの作品を手本に独学したのでしょう。

そして1775年頃、北川豊章とよあきの名でデビュー。駆け出しの浮世絵師の常として、本の挿絵や役者絵を手がけました。世の中は、老中・田沼意次おきつぐのもとで数々の経済積極策が打ち出され、江戸の町は好況に沸いていました。

画号を「歌麿」と改めたのは1781年頃のこと。新興の版元・蔦屋重三郎つたやじゅうさぶろう、通称「蔦重」に才能を見いだされ、美人画を多く描くようになりました。蔦重といえば、出版社を経営する敏腕プロデューサー。以降しばらく、歌麿の錦絵や狂歌絵本を独占的に刊行します。専属アーティストですね。歌麿は蔦重の家に住んだ時期もあったようです。

ときに江戸の町では、狂歌が大流行していました。蔦重はこれに商機を見いだします。幕臣で文人の大田南畝おおたなんぽが率いる狂歌サークルと親交を結び、狂歌本や狂歌入りの錦絵を精力的に出版したのです。歌麿はその挿絵を数多く手がけ、自身も「筆綾丸ふでのあやまる」というユーモラスなペンネームで狂歌を詠みました。

大首絵で女性の心情まで描き出す

寛政5年(1793年)頃、歌麿は絵師として大きく飛躍します。蔦重のもとから売り出した美人大首絵おおくびえが一世を風靡ふうびしたのです。大首絵とは人物の上半身をクローズアップで描いたもので、その先駆けは勝川春章らが絵本に描いた役者絵でした。なお、蔦重はこの大ヒットののち、ご存じ東洲斎写楽とうしゅうさいしゃらくの役者大首絵でも成功を収めています。

日本の芸術では古来、人の顔を喜怒哀楽の感情のない決まった形に表すのが常です。平安時代の絵巻物に描かれた引目鉤鼻ひきめかぎはなの男女や、室町時代の能面がその代表例ですね。江戸時代の浮世絵師たちも同様に、美人の顔を理想化した定型の顔立ちに描きましたが、歌麿の美人大首絵はそこに新たな風を吹き込みました。無表情で定型という伝統はそのままに、髪形、きもの、化粧、しぐさなどを年齢や身の上によって描き分け、あえて背景を描かずにポーズを際立たせて、その女性の性格や心情まで表現したのです。

絵の中の小道具も見どころです。団扇うちわは夏、虫籠は秋、提灯ちょうちんは夜など、季節感や時刻を演出するアイテムを描き込みました。鏡を見ながら化粧する女性像には、絵の中の鏡という演出の面白さに加え、髪形を正面と後ろの両方から見る楽しみがあります。

透かしてみせる表現も得意でした。蚊帳の向こうに顔を見せていたり、薄い布を手に取っていたりと、蚊帳越し、布越しに見る美人という心憎い演出です。錦絵は色ごとに木版を作って摺り重ねるため、細い線の重なりで表す蚊帳や布地はその特性にうってつけでした。当時、ハイカラだったガラスの杯でお酒を飲む美人画もあでやかです。

青楼仁和嘉女芸者部 たま村屋おひで 富本豊志名
喜多川歌麿筆 大判錦絵
天明3年(1783年)
(日本浮世絵博物館)
歌麿がモデルにした美女たち

江戸っ子にとって、吉原の高級遊女は高嶺たかねの花であり、町で評判の看板娘は「会いに行けるアイドル」的存在でした。歌麿はそのどちらも数多く描いています。

一流妓楼ぎろうのトップクラスだけでなく、売り出し中の遊女も描いており、歌麿の浮世絵には広告としての役割もあったようです。華やかな花魁おいらん道中や宴会だけでなく、遊女同士のおしゃべりや手紙を書く姿、着替えなど、日々の何げないしぐさまで鮮やかに捉えました。

一方、当時の町娘の代表格といえば、浅草寺の水茶屋の娘・難波屋なにわやおきた、両国の煎餅屋と水茶屋の娘・高島おひさ、そして吉原芸者の富本豊雛とよひなのいわゆる「寛政の三美人」です。歌麿は、高島おひさと、30年ほど前に鈴木春信のミューズであったおせんを並べた作品も描いており、「我こそは春信に続く美人画の旗手である」という自負がうかがえます。

大首絵のほか、腰から上を描いた七分身像の美人画も見逃せません。腰をひねって座る姿、両手を返して伸びをする姿など、女性らしいしなやかな体つきに色香が漂います。また、複数の錦絵を横に並べるセット売りの続絵つづきえも人気でした。春画は30数点が伝わっており、自在な絡みや大胆な構図が見どころです。

歌麿の美人(鮫島圭代筆)
寛政の改革にあらがって

人気絶頂の歌麿でしたが、この頃、幕府では老中・松平定信らが贅沢ぜいたくを禁じる寛政の改革を推し進めていました。寛政5年(1793年)には、絵の中に町娘の名を記すことが禁じられます。歌麿は名前を書く代わりに、絵から名前を推測させる「判じ絵」を描き入れることで対応しましたが、3年後にはそれも禁止に。そんななか、蔦屋重三郎が亡くなり、歌麿のショックは相当なものだったでしょう。その後も錦絵全体、特にその筆頭である歌麿をターゲットとした締めつけは続き、1800年には、美人大首絵の自粛が取り沙汰されました。

歌麿はそれでもなお、絵の中に教訓的な文章を書き込むなどして規制をかわそうとしましたが、ついに1804年、手鎖てぐさりの刑に処せられます。昔の武将の絵を描いたことや、滑稽な表現がおとがめの理由だったとか。その後は、当局の目が及ばない肉筆画(版画ではなく手描きの絵)に力を注ぎ、生涯に50数点を残しました。

処罰から2年後、歌麿は失意のなか逝去。享年50前後といわれます。歌麿の美人画は、西欧がジャポニズムに沸いた19世紀末以来、今もなお世界で称賛されています。9月22日まで東京都美術館で開催中の「The UKIYO-E 2020 ― 日本三大浮世絵コレクション」では、その名品が堪能できますので、お近くの方はお見逃しなく!

※「青楼仁和嘉女芸者部せいろうにわかおんなげいしゃのぶ たま村屋おひで 富本豊志名とみもととよしな」は会期中の8月25日(火)から9月22日(火・祝)まで展示。(展覧会は日時指定入場制です。詳細は展覧会公式サイトでご確認ください。)

展覧会の公式サイトはこちら
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鮫島圭代

プロフィール

美術ライター、翻訳家、水墨画家

鮫島圭代

学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/

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