探幽縮図 奇疾図巻(部分)
狩野探幽筆 重要美術品
京都国立博物館 ColBase (https://colbase.nich.go.jp/)

2020.7.22

【大人の教養・日本美術の時間】日本スター絵師列伝 vol. 12 狩野探幽

日本史上最大の絵師集団、「狩野派かのうは」。室町幕府の御用絵師をつとめた初代・狩野正信まさのぶ以来、江戸時代末に至るまで、その時々の政権に召し抱えられ、城や邸宅を華やかに彩りました。

なかでも、織田信長、豊臣秀吉に仕えた天才絵師・狩野永徳えいとく(正信の曽孫)は、膨大な注文をこなす必要から、松の巨木など、ひとつのモチーフを画面から飛び出さんばかりに大きく描く「大画たいが様式」を確立し、天下人を魅了しました。

永徳の死後、豊臣家が斜陽に向かい、次なる天下の覇者が見えないなか、狩野派はどう転んでも一門が生き残れるようにと、豊臣、徳川、朝廷にそれぞれ有力絵師を布陣しました。そのなかで永徳の弟・長信ながのぶは、狩野派の中ではいち早く徳川幕府の御用絵師となります。一方、永徳の次男・孝信たかのぶは宮廷などで活躍するとともに、幼くして狩野派当主となった貞信さだのぶを支えました。

江戸狩野派のリーダー

その孝信の長男こそ、今回の主人公、探幽たんゆうです。探幽が京都に生まれたのは1602年。翌年、徳川家康が征夷大将軍となり、江戸時代が幕を開けました。

探幽は幼い頃から天才ぶりを発揮し、11歳にして家康とその息子の2代将軍秀忠に謁見し、その2年後には、秀忠の前で絵画制作を披露して「祖父・永徳の再来」と絶賛されました。

鸕鷀草葺不合尊降誕図
狩野探幽筆、天祐紹杲賛  江戸時代・17世紀
東京国立博物館 ColBase (https://colbase.nich.go.jp/)

当時すでに、永徳の弟・長信が江戸幕府で活躍していた縁もあり、探幽は16歳の若さで江戸に召され、幕府御用絵師となります。以降、2代秀忠、3代家光、4代家綱と歴代将軍に仕えました。20歳の時には、江戸城の 鍛冶橋門近く(現在の東京駅・鍛冶橋通り付近)に1033坪の屋敷を拝領しています。

1623年、狩野家当主の貞信(探幽の従兄いとこ)が若くして世を去り、探幽の弟・安信やすのぶが当主を引き継ぎました。ここに狩野宗家は京都から江戸に移ります。そして天才・探幽は実質的なリーダーとして一門を率い、次々と舞い込む大仕事に腕を振るいました。

その記念碑的プロジェクトといえるのが、二条城の障壁画でした。徳川将軍が京都に赴く際の滞在先であった二条城に後水尾ごみずのお天皇をお迎えするため、幕府から城内の障壁画制作を命じられたのです。弱冠25歳の探幽を筆頭に、弟の尚信なおのぶと安信、そして長老を含めた親戚や高弟が各部屋を担当しました。この時の建物のうち二の丸御殿は今に残っており、狩野派最大の遺産となっています。

探幽は、将軍の威厳を示す重要な部屋である大広間に「松鷹図まつたかず」を描きました。戦国時代の永徳の巨木表現を受け継いでいるものの、木が画面の枠から飛び出るような「大画様式」にはあらず。探幽の松は太い枝を横へと伸ばして画面内に収まり、松葉がどっしりと垂れさがっています。この抑制された安定感のある構図は、揺るぎない幕藩体制を築いた幕府の感性と共鳴したのでしょう。

探幽の松と鷹 (鮫島圭代筆)
「軽み」と「瀟洒淡麗」

33歳の時には、将軍が京都への道中で泊まる滞在先として名古屋城の中に増築した上洛殿じょうらくでんの障壁画を手掛けました。このうち「雪中梅竹遊禽図襖せっちゅうばいちくゆうきんずふすま」では、雪の降り積もった大きな梅の木が横へと枝を伸ばしながらも、襖の枠内に品良く収まり、たっぷりと残された余白が余韻や情感を伝えています。探幽は余白に説得力を持たせるために、墨の濃淡や線の太さに変化をつけました。絵の雰囲気に「軽み」がありながら、物足りなくないのは、優れたバランス感覚のなせる技。ここに「瀟洒淡麗しょうしゃたんれい」と評される探幽様式が完成しました。

探幽は、中国の水墨画の伝統を引く「漢画」のほか、平安時代の王朝絵巻に代表されるみやびな「やまと絵」の学習にもつとめました。

35歳の時には、家康の生涯を描く「東照宮縁起絵巻とうしょうぐうえんぎえまき」の制作を命じられ、貴重な絵巻を京都の寺院から取り寄せて研究。4年後に見事完成させ、家康の25回忌に日光東照宮に納めています。

その翌年には、大徳寺に80面を超える障壁画を描きました。そのうち「四季松図屏風しきまつずびょうぶ」では、全体に金箔きんぱくを貼り、極彩色で春夏秋冬の4本の松をたおやかに描いています。余白として大きく残された金地が美しく、やまと絵を昇華させた傑作といわれます。

ちなみに、大徳寺の住持・江月宗玩こうげつそうがんは探幽の才能を幼いころから賞賛した高僧で、10歳の時に描いた絵に賛を寄せたほど。34歳の時「探幽」の号を授けたのも宗玩です。

受け継がれる探幽様式

探幽の様式は、ほどなく江戸の狩野派一門に浸透しました。さらには、当時、絵師を志す者は最初に狩野派を学ぶ習わしだったため、江戸時代の絵画全体の基調となっていきます。そして探幽の絵が持つ「軽み」は、江戸絵画全体の気分を形作っていきました。

探幽は名鑑定士でもありました。大名家などから古画の鑑定を数多く依頼されたのです。持ち込まれた絵を偽物であっても模写し、依頼者の名前と日付、真贋しんがんの判断をメモしたため、膨大な「探幽縮図」として今に伝わっています。その種類は、中国画、仏画、水墨画、そして絵巻物までと幅広く、当時の美術品を知る大変貴重な資料となっています。

探幽はまた、草花、野菜、鳥、風景など目に映るものを写生し、膨大な数のスケッチちょうを残しました。のびやかで素早い筆致で、淡い彩色がみずみずしく、描くことが楽しくて仕方がないという気持ちまで伝わってくるようです。

こうした学習をもとに、探幽は常に新しい画題や斬新な構図に取り組みました。狩野派を率い、幕府御用絵師として多忙を極めながらも、学びと挑戦を続けたのです。

新三十六歌仙図帖(部分)
狩野探幽筆  江戸時代・寛文4年(1664年)
東京国立博物館 ColBase (https://colbase.nich.go.jp/)

1662年、61歳の時には、画家として初めて最高位の「法印ほういん」の称号を授かり、その後、現在の大阪府東大阪市に200石もの領地を賜りました。こうして狩野派の権威は不動のものとなったのです。

プライベートでは、52歳の時、初めての息子が誕生しました。子煩悩だったらしく、長男の絵を後水尾上皇に見せようと画策したり、幼い我が子を将軍に謁見させたりしています。最晩年は中風に苦しみながらも制作をつづけ、1674年、73歳で世を去りました。

明治時代の美術史家・岡倉天心は、探幽を「画壇の家康」と評しています。「瀟洒淡麗」の画風を確立し、狩野派一門のみならず、江戸時代の絵画全体に大きな影響を与えた画壇の巨人。今もそのお墓を池上本門寺(東京都大田区)に訪ねることができます。

鮫島圭代

プロフィール

美術ライター、翻訳家、水墨画家

鮫島圭代

学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/

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