2019.11.11

【大人の教養・日本美術の時間】天下無双の名香 蘭奢待ってなに?

(鮫島圭代筆)

毎日の暮らしのなかで、香りを楽しむことはありますか?

通勤途中にふと鼻をかすめる花の香り、どこかの家の台所から漂ってくるごはんの香り、シャンプーや石鹸せっけんの香りなど。好きな香りを嗅ぐと、気持ちがリフレッシュしたり、幸せな気分になったりしますね。

日本には、伝統的な「香り」の文化があります。

平安時代の貴族たちは、部屋で香をいて来客を迎えたり、着物に香りを移して身だしなみを整えたりしました。また、各種の香料を練り合わせた「薫物たきもの」を作り、その優劣を競う「薫物合たきものあわせ」という遊びも人気でした。

鎌倉時代になると、武士たちは南の国からもたらされた、よい香りがする木「香木こうぼく」を珍重し、さまざまな香木の香りを嗅ぎ分ける遊び「組香くみこう」を楽しみました。そして、室町時代には、将軍・足利義政の東山山荘(銀閣寺)に集った文化人たちの間で芸道として発展し、「香道こうどう」が成立しました。香道では、香りを嗅ぐことを「香りを聞く」といいます。みやびな表現ですね。

日本の香り文化のなかで、現代の私たちに一番身近なのは、やはり仏壇に供えるお線香の香りでしょう。

日本の香りの歴史は、その始まりから仏教とともにありました。

こうに関する日本最古の記録が残るのは「日本書紀」で、推古天皇の治世だった595年に、淡路島に沈香じんこうという種類の香木が流れ着いたと記されています。

でも実際には、それより50年以上前、大陸から仏教が公式に伝えられた頃に、仏像や経典とともに、香木も日本にもたらされていたと考えられているのです。

古来、仏教儀式にお香は欠かせません。仏像の前に花を飾り、あかりをともして、香を焚き、仏前をきよめます。いにしえの人々は、遠く大陸から伝来した貴重な沈香を切り取って、そのかけらを火で焚き、あたりに漂うおごそかな香りに魅了されたことでしょう。

天下の名香、「蘭奢待らんじゃたい」をご存じでしょうか? 長さ156センチ、最大直径37.8センチ、重さ11.6キロ・グラムもあり、一見、海辺で拾ってきた流木のようですが、日本で一番有名で価値の高い香木です。

黄熟香(蘭奢待) 東南アジア(正倉院宝物)

「蘭奢待」の文字をよく見ると…「蘭」という字の中には「東」、「奢」の中には「大」、そして「待」の中には「寺」の字がありますね。「蘭奢待」という名前には「東大寺」の名が隠れているのです。

蘭奢待は、奈良・東大寺の宝物をおさめた倉庫、正倉院に伝わりました。正倉院での正式名称は「黄熟香おうじゅくこう」といい、その名の通り、木肌が黄みがかっています。

正倉院には、蘭奢待のほかにも数々の香木や、香を焚くときに使う道具が伝わりました。なかでも特に有名なもうひとつの香木が「全浅香ぜんせんこう」です。全浅香は、光明皇后が正倉院におさめた宝物のリスト「国家珍宝帳こっかちんぽうちょう」にも記されている由緒正しい香木です。

一方、蘭奢待の来歴はよくわかっていません。いつの頃か、遠く南方から海を渡り、やがて日本にもたらされ、東大寺に伝えられ、少なくとも800年以上前には正倉院におさめられたようです。そのはるかなる道のりを想像するとロマンがかきたてられます。

天下の名香というのですから、どんなにいい香りがするのか気になりますね。蘭奢待には、現在でも驚くほどしっかりと香りの成分が残っているそうです。

蘭奢待は、沈香という種類の香木です。先ほど触れた、「日本書紀」に記された日本最古の香木の記録と同じ種類ですね。

沈香は、東南アジアに自生するジンコウジュという木が倒れたりしたときに、その切り口に樹脂などが分泌され、それが沈着してできます。樹脂が密に固まってできたものなので、ずっしりと重みがあります。そのままでも良い香りがしますが、熱を加えるといっそう素晴らしい香りが漂います。なお、沈香のなかでも特に高級なものは「伽羅きゃら」と呼ばれ、そのため「伽羅」は、「極上」という意味の褒め言葉としても使われます。

信長も切り取った

蘭奢待には切り取った跡が残っていて3枚の付箋が貼られており、室町将軍・足利義政、織田信長、明治天皇が、それぞれわずかに切り取ったことを伝えています。天皇の許可なしには開けられない正倉院の扉の奥に眠る蘭奢待は、権力の象徴でもありました。

(鮫島圭代筆)

織田信長は、室町幕府を滅ぼしたのちの天正2年(1574年)、蘭奢待を見たいと東大寺に申し入れ、天皇の許可を取りつけました。天皇の勅使ちょくしが正倉院の扉を開けたあと、東大寺の僧侶が蘭奢待を取り出し、信長が待つ正倉院の近くのお城、多聞山城たもんやまじょうへと運びました。そして仏師の手で、約4センチ角の木片が二つ切り取られ、ひとつは天皇に献上され、もうひとつは信長のものとなったのです。とはいえ信長は蘭奢待の木片を持ち続けたわけではなく、まもなく茶人の千利休らに分け与えたと伝わります。

明治時代、明治天皇が正倉院を訪れたときには、蘭奢待から切り取らせた木片を火で焚き、「薫烟芳芬くんえんほうぶんとして行宮あんぐうに満」ちた、と伝わります。また、当時の研究家・蜷川式胤にながわのりたねは、「香気軽く清らかにして、誠にかすかのかほり有り」と記しています。

私たちが蘭奢待の香りを体験することはできませんが、こうしたエピソードから優雅な香りを想像すると楽しいですね。

東京国立博物館では11月24日(日)まで「御即位記念特別展 正倉院の世界−皇室がまもり伝えた美−」展が開催されています。蘭奢待も展示されています。天下の名香を、ぜひ間近にご覧ください。

【御即位記念特別展 正倉院の世界−皇室がまもり伝えた美−】
  • 東京国立博物館 2019年10月14日(月・祝)〜11月24日(日)

※黄熟香(蘭奢待)は東京国立博物館にのみ展示

関連サイト
鮫島圭代

プロフィール

美術ライター、翻訳家、水墨画家

鮫島圭代

学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内で墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/

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