2021.7.14

【ボンボニエールの物語vol.48】続・皇族 お印の物語

笙形
9.7 × 2.2 径 1.7 高さ 1.8 cm
(個人蔵)

今回は、毎度おなじみの「お印」について。久邇宮くにのみや家の特徴あるお印についての話である。

久邇宮家

久邇宮家は明治8年(1875年)に、伏見宮ふしみのみや邦家くにいえ親王の第4王子、朝彦あさひこ親王が創立した宮家である。

伏見宮は江戸時代、有栖川宮ありすがわのみや桂宮かつらのみや閑院宮かんいんのみやの各家と並ぶ、四親王家の筆頭であった由緒正しい家である。四親王家とは天皇に跡継ぎがいない場合に天皇の位を継ぎ、皇統を維持するために設けられていた宮家。逆に、宮家に継嗣がいない場合には、皇子が入って存続させていた。

幕末から明治にかけて、この四親王家の他に、宮家が次々と創立された。その梨本宮なしもとのみや山階宮やましなのみや、久邇宮、小松宮、北白川宮、竹田宮、華頂宮かちょうのみや、東伏見宮、賀陽宮かやのみや朝香宮あさかのみや、東久邇宮はすべて、伏見宮家の系統、というよりも、子だくさんであった邦家親王の子孫である。

久邇宮家は、前述したように、朝彦親王が創立した。朝彦親王は、当時の宮家の王子の常として、門跡となり、青蓮院宮しょうれんいんのみやと称した。時は幕末、宮は日米修好通商条約の勅許に反対し、将軍継嗣問題では、一橋慶喜を支持。それ故、大老井伊直弼による「安政の大獄」で永蟄居えいちっきょを命じられた。その後、「桜田門外の変」で直弼が暗殺された後に復権し、中川宮と名を変え、「国事御用掛ごようがかり」として、朝廷政治に参画した。薩摩、幕府とも手を結び、明治維新に向かう立役者の一人となった。中川宮は、幕末の騒乱を生き抜いた、もっとも有名な宮かもしれない。大河ドラマなどにも、度々登場している。

しかし、中川宮は明治維新の際、慶喜に密使を送ったことが陰謀と捉えられ、維新後は広島で幽閉される。その後、明治5年に謹慎を解かれ、明治8年になって、久邇宮家を創立するに至った。

久邇宮家第2代は、朝彦王の第3王子、邦彦くによし王である。皇族として陸軍に入り、元帥陸軍大将にまで上り詰めた。夫人は島津忠義ただよしの七女、俔子ちかこである。2人の間には、3男3女が生まれたが、その長女が良子ながこ女王、つまり、香淳こうじゅん皇后である。

琴形
2.2 × 10.2  高さ 1.4 cm
(個人蔵)
雅楽の楽器がお印

良子女王の兄にあたる久邇宮家第3代は朝融あさあきら王。お印は「春」であるが、お子様たちのお印がなんとも、すてきなのである。

長男邦昭くにあきは「しょう」、長女正子まさこは「琴」、次女朝子あさこは「鼓」、三女通子みちこは「鈴」、四女英子ひでこは「笛」、次男朝建あさたけは「かね」、五女典子のりこは「駒」、三男朝宏あさひろは「弓」、邦昭夫人の正子ただこは「琵琶」と、すべてが雅楽の楽器なのである。久邇家では現在でも、このお印を正月の膳の箸袋に記しているという。

写真のボンボニエールは、笙と琴。いずれも箱書きや添え札を伴わないので確証はないが、笙は邦昭王関連のもので、琴は正子女王関連と推測される。

どなたか詳細をご存じであれば、ぜひ、教えていただきたい。

長佐古美奈子

プロフィール

学習院大学史料館学芸員

長佐古美奈子

学習院大学文学部史学科卒業。近代皇族・華族史、美術・文化史。特に美術工芸品を歴史的に読み解くことを専門とする。展覧会の企画・開催多数。「宮廷の雅」展、「有栖川宮・高松宮ゆかりの名品」展、「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」展など。著作は、単著「ボンボニエールと近代皇室文化」(えにし書房、2015年)、共著「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」(青幻舎、2018年)、編著「写真集 明治の記憶」「写真集 近代皇族の記憶―山階宮家三代」「華族画報」(いずれも吉川弘文館)、「絵葉書で読み解く大正時代」(彩流社)など。

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