聖徳太子

PRINCE SHŌTOKU

徳太子二王子像(模本)

(部分)

聖徳太子(574~622)は推古天皇の時代に蘇我馬子(そがうまこ)らとともに政治を補佐し、仏教を中心とした国造りを行いました。冠位十二階や憲法十七条の制定、遣隋使の派遣によって政治制度を整えるとともに、法華経(ほけきょう)勝鬘経(しょうまんぎょう)維摩経(ゆいまきょう)の教えを深く研究することで、わが国の文化を大きく飛躍させたことが知られています。生前から「上宮法皇(じょうぐうほうおう)」と呼ばれた太子に対する尊崇はやがて太子信仰として結晶し、その流れは現在も日本仏教のうちに脈々と息づいています。

聖徳太子二王子像(しょうとくたいしにおうじぞう)(模本)
狩野〈晴川院〉養信筆 江戸時代・天保13年(1842) 東京国立博物館蔵
東京会場

法隆寺

HŌRYŪJI

奈良県生駒(いこま)郡斑鳩町に位置する聖徳宗の総本山。推古天皇15年(607)に聖徳太子により創建されました。天智(てんじ)天皇9年(670)の火災後、8世紀初めまでに再建されたのが金堂・五重塔を中心とする西院伽藍(さいいんがらん)で、金堂内には飛鳥時代の諸仏が安置されています。天平11年(739)頃に建てられた夢殿(ゆめどの)を中心とする東院伽藍(とういんがらん)は、太子信仰の中心となりました。法隆寺は建築・美術・文学などあらゆる分野において、わが国を代表する文化財を今に伝えています。

法隆寺
法隆寺境内図

1章

聖徳太子と仏法興隆(ぶっぽうこうりゅう)

聖徳太子の祖父にあたる欽明(きんめい)天皇の時代、朝鮮半島の百済(くだら)から正式に仏教が伝わりました。仏教の受容をめぐっては蘇我氏(そがし)物部氏(もののべし)を中心とする戦いなどの混乱がありましたが、やがて太子が政治の中心的な立場になると急速に浸透していきます。金銅仏をはじめとした仏像が造られるようになり、太子自らも法華経をはじめ仏教の真理を研究したとされます。この章では太子ゆかりの品々を通じ、聖徳太子その人と最初期の日本仏教を概観します。

重要文化財 菩薩立像

神秘なる飛鳥の微笑み

重要文化財 菩薩立像(ぼさつりゅうぞう)
飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺蔵

山形の高い宝冠、面長の顔に見開いた目、微笑みを浮かべた口、両体側に魚のヒレのように広がった衣の表現など、金堂釈迦三尊像の両脇侍と似ている。止利仏師(とりぶっし)と同系統の仏師の作と見られる。

夾紵棺断片

聖徳太子の棺?

夾紵棺断片(きょうちょかんだんぺん)
飛鳥時代・7世紀 大阪・安福寺蔵

夾紵棺とは7世紀にみられる高級な(ひつぎ)で、通常は漆で麻布を貼り重ねて作られる。ところが本断片は45層もの絹を用いた極めて特殊な構造であり、その幅は記録に残る聖徳太子の棺台(叡福寺(えいふくじ)北古墳)に一致する。このため太子の棺である可能性が指摘されている。

2章

法隆寺の創建

聖徳太子は、自らが住む斑鳩宮(いかるがのみや)に隣接して法隆寺を創建しました。『法隆寺資財帳』では推古天皇15年(607)のこととされ、同年には小野妹子(おののいもこ)が遣隋使として中国大陸に派遣されています。法隆寺の創建は冠位十二階制定(603年)以降の目覚ましい歴史的な転換期になされたものであり、その名が意味するように「仏法興隆」を推し進める中心地でした。本章では儀式の場で用いられた多くの仏具や伎楽面(ぎがくめん)を通じ、法隆寺の荘厳(しょうごん)をご紹介します。

国宝 灌頂幡(部分)

太子の娘が奉納した豪華な〝はた〟

(部分)

国宝 灌頂幡(かんじょうばん)
飛鳥時代・7世紀 東京国立博物館蔵(法隆寺献納宝物)

金銅の板を彫り透かして作られた極めて豪華な幡で、天上から舞い降りる菩薩の姿が雄大に表されている。『法隆寺資財帳』には「片岡御祖命(かたおかのみおやのみこと)」によって奉納されたと記録されており、これは聖徳太子の娘である片岡女王のことと考えられる。

国宝 天寿国繡帳(部分)

(部分)

繊細な刺繍で表された「天寿国」

国宝 天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう)
飛鳥時代・推古天皇30年(622)頃 奈良・中宮寺蔵
東京会場|前期

聖徳太子が亡くなられた後、(たちばな)妃の願いを受け、推古天皇の命によって作られたという(とばり)(カーテン)の断片。太子が往生したという「天寿国」のありさまが緻密な刺繍によって表わされており、飛鳥時代の仏教思想を知る上でも極めて重要な作品である。

3章

法隆寺東院とその宝物

太子が住んだ斑鳩宮。天平11年(739)になって、その跡地に建立されたのが東院伽藍(とういんがらん)です。中心をなす夢殿の本尊は太子等身の救世観音像(くせかんのんぞう)であり、創建にあたっては太子の遺品類も集められました。夢殿後方の絵殿(えでん)舎利殿(しゃりでん)には「聖徳太子絵伝」と「南無仏舎利」が安置され、太子信仰の重要な拠点でした。本章では聖徳太子の遺徳を称える聖霊会(しょうりょうえ)のうち、10年に一度行われる大会式(だいえしき)など、東院伽藍にまつわる華やかな法要にも注目します。

国宝 観音菩薩立像

悪夢を吉夢に変える観音像

国宝 観音菩薩立像(かんのんぼさつりゅうぞう)夢違観音(ゆめちがいかんのん)
飛鳥時代・7~8世紀 奈良・法隆寺蔵
奈良会場

この像に祈れば悪夢が吉夢に変わるとの伝承から「夢違観音」の名がある。明るくほがらかな表情は飛鳥時代後期(白鳳期)の典型を示すが、大きな(もとどり)や豊かな肉付けには奈良時代の要素が表れている。軽やかな天衣や繊細な指先に至るまで、随所に洗練された造形感覚が発揮される。

重要文化財 聖徳太子坐像

聖霊会の主役!

重要文化財 聖徳太子坐像(しょうとくたいしざぞう)(伝七歳像(しちさいぞう)
平安時代・治暦5年(1069) 奈良・法隆寺蔵
奈良会場

東院絵殿に安置されていた聖霊会の本尊。太子を穏やかな風貌の少年の姿で表す。像内銘により、仏師円快(えんかい)が制作し、絵殿の「聖徳太子絵伝」を描いたとされる秦致貞(はたのちてい)が彩色したことが知られている。制作当初の彩色が鮮やかに残っている。

国宝 行信僧都坐像

肖像彫刻の傑作

国宝 行信僧都坐像(ぎょうしんそうずざぞう)
奈良時代・8世紀 奈良・法隆寺蔵

夢殿本尊救世観音像の左脇の厨子内に安置される。行信(生没年不詳)は、荒廃していた斑鳩宮の地に、東院伽藍を建立したと伝える。意志の強そうな風貌の威厳ある姿が、写実的に表現されている。奈良時代肖像彫刻の傑作のひとつ。

南無仏舎利

太子が「南無仏」と唱えると出現!

南無仏舎利(なむぶつしゃり)
[舎利塔] 南北朝時代・貞和3~4年(1347~48) [舎利据箱] 鎌倉時代・13世紀  奈良・法隆寺蔵(写真提供:小学館)
東京会場

聖徳太子2歳の春、2月15日の夜明け頃に東へ向かって「南無仏(なむぶつ)」と唱えたところ、その合わせた手のひらからこぼれ落ちたという仏舎利が水晶の五輪塔に納められている。法隆寺東院舎利殿の本尊であり、太子信仰の中心として古来信仰を集めてきた。

国宝 聖徳太子絵伝(部分)

(部分)

奈良会場のみの特別展示
東院絵殿の「聖徳太子絵伝」
全10面一挙公開

国宝 聖徳太子絵伝(しょうとくたいしえでん)
秦致貞筆 平安時代・延久元年(1069) 東京国立博物館蔵(法隆寺献納宝物)
奈良会場|前期

4章

聖徳太子と仏の姿

平安時代になると、聖徳太子を救世観音(くせかんのん)の生まれ変わりとみる信仰が生まれ、太子も中心的な信仰の対象となりました。その代表作が聖徳太子の500年遠忌に制作された法隆寺聖霊院(しょうりょういん)の「聖徳太子および侍者像」です。今回の特別展は、秘仏本尊として通常には拝観の機会がない本像を間近に拝観できる極めて貴重な機会です。また二歳像や十六歳像など聖徳太子は様々な姿で表されてきました。本章では多彩な太子の姿とともに、法隆寺に伝来した仏画の名品をご紹介します。

国宝 聖徳太子および侍者像

秘仏 27年ぶり寺外公開

国宝 聖徳太子(しょうとくたいし)および侍者像(じしゃぞう)
平安時代・保安2年(1121) 奈良・法隆寺蔵(侍者像 写真提供:小学館)

聖霊院の秘仏本尊で、聖徳太子の500年遠忌にあたり造立された。冠を戴き、(しゃく)をとる聖徳太子の威厳に満ちた姿とは対照的に、周囲に配された山背大兄王(やましろのおおえのおう)(太子の子)、殖栗王(えくりおう)卒末呂王(そまろおう)(太子の異母弟)、高句麗僧の恵慈法師(太子の仏教の師)はユーモラスな表情をみせる。平安時代後期における聖徳太子信仰の高まりを背景に制作された傑作である。

善光寺如来御書箱

如来から太子への手紙が入った箱

善光寺如来御書箱(ぜんこうじにょらいおんしょばこ)
飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺蔵
東京会場

聖徳太子は亡き父の用明天皇を弔い、七日七夜にわたって念仏を行った後、その功徳を善光寺の阿弥陀如来に伺った。本作は、その際に如来から送られた返事(御書(おんしょ))を収めたとされる箱である。全体に蜀江錦(しょっこうきん)が貼られ厳封されている。

重要文化財 聖徳太子像

病気回復への祈り

重要文化財 聖徳太子像(しょうとくたいしぞう)孝養像(きょうようぞう)
鎌倉時代・13世紀 奈良・法隆寺蔵
奈良会場|後期 東京会場|後期

角髪(みずら)を結い、柄香炉(えごうろ)を捧げ持ち、袈裟(けさ)をつける童子形(どうじぎょう)の聖徳太子像。孝養像と呼ばれるこの姿は太子16歳の折、父用明(ようめい)天皇の病気平癒を祈り、病床に(はべ)って看病した際の様子を描く。太子の肖像のなかでも代表的な作例の一つである。

5章

法隆寺金堂と五重塔

『日本書紀』によると、法隆寺最初の伽藍(若草伽藍)は天智天皇9年(670)に焼失したとされ、その後再建されたのが現在の西院伽藍(さいいんがらん)です。金堂は7世紀後半に建てられた世界最古の木造建築として知られ、創建以来大きな変化なく伝えられた内陣は、まさに奇跡の空間です。五重塔は仏舎利を祀った建築で、内部には釈迦の生涯などを表した塔本塑像(とうほんそぞう)が安置されています。本章では金堂と五重塔ゆかりの仏像を中心に、その荘厳な世界をご覧いただきます。

国宝 薬師如来坐像

古代仏像彫刻の傑作

国宝 薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)
飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺蔵

金堂東の間の本尊。口もとに微笑(ほほえ)みを浮かべた神秘的な顔立ちや、文様的な裳懸座(もかけざ)などに飛鳥時代の様式美を示す名品である。光背背面の銘文によれば、丁卯(ひのとう)年(607)にこの薬師如来像を造立したとある。しかし、癸未(みずのとひつじ)年(623)に完成した、金堂中の間の釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)に比べ、鋳造技術などに進歩がみられるため、制作年代は釈迦三尊像よりも後だと考えられている。飛鳥時代を代表する仏像の一つだが、謎も多い。

国宝 四天王立像

日本最古の四天王像

国宝 四天王立像(してんのうりゅうぞう) 多聞天(たもんてん)
飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺蔵

金堂の内陣四隅を守護する日本最古の四天王像。厳しい眼差しを持ちながらも、動きの少ない静謐(せいひつ)な姿や、(うやうや)しく天王を背中に乗せる邪鬼(じゃき)の姿は極めて独自である。内陣の後方に位置することから、普段は拝観できない広目天(こうもくてん)・多聞天の両像を本展では公開する。

国宝 羅漢坐像

迫真の感情描写!

国宝 塔本塑像(とうほんそぞう) 羅漢坐像(らかんざぞう)
奈良時代・和銅4年(711) 奈良・法隆寺蔵
奈良会場

五重塔初層に、心柱を中心にして四面に安置される塑像群(そぞうぐん)。塑土で築いた山岳風景を背景に、群像によって仏典中の諸場面を表す。なかでも釈迦の死を(いた)む人々の感情描写は見事で、写実性を追求した奈良時代の幕開けを飾る作品である。

  • ※東京会場には出品されません
国宝 伝橘夫人念持仏厨子

宮殿の中の極楽浄土

国宝 伝橘夫人念持仏厨子(でんたちばなぶにんねんじぶつずし)
飛鳥時代・7~8世紀 奈良・法隆寺蔵
東京会場

やわらかな微笑みが印象的な阿弥陀三尊像。精緻な出来栄えとともに、その指先や衣にみられる流麗な曲線はひときわ美しく、古代の金銅仏中においても随一の傑作である。須弥座を備えた天蓋(てんがい)付きの厨子も当初のものであり、古代の礼拝空間を伝えていることも貴重。

国宝 玉虫厨子

古代仏教工芸の代表作

国宝 玉虫厨子(たまむしのずし)
飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺蔵
奈良会場

須弥座(しゅみざ)上に宮殿を据えた形の厨子。宮殿を飾る透彫金具の下に玉虫の(はね)が敷かれることからこの名がある。宮殿や須弥座には、霊鷲山(りゅうじゅせん)須弥山(しゅみせん)、釈迦の前世の物語である本生譚(ほんしょうたん)などの絵が描かれる。わが国の古代仏教工芸を代表する作品。

法隆寺献納宝物とは

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動の動乱から法隆寺と宝物を守るため、明治11年(1878)に皇室へ献納された仏教美術を中心とする作品群。正倉院の宝物とともに、わが国古代美術史上の双璧をなし、特に飛鳥時代の作品を多く含んでいる点に特色があります。終戦後の国有化を経て東京国立博物館が所蔵しており、約320件からなる内容は絵画・書跡・彫刻・金工・木漆工・染織と多岐にわたります。いずれもわが国における仏教美術の黎明期を考察する上で貴重な作品です。